私は、胃がんの症状悪化により、介護職として働けない身体になり、休職を余儀なくされました。
当然収入はなくなり、これから生活をしていくためには、再申請の傷病手当金受給するしか選択肢がありませんでした。
主治医に診断書を書いていただくことが難しいと考え、様々な行動をしてきました。
しかし、どうにもならない日々が続き、これから生活していけるのか、という不安と隣り合わせの日々を、孤独に過ごしていました。
先日、主治医の受診予約が入っていましたが、主治医に対しての不信感が拭えず、行く気はありませんでした。
しかし、「不信感」というブレーキを外して、腹痛が激しい中、高速道路を走り病院へ向かうことにしました。
断られたら次の病院の先生にお願いすればいい。
でも、そんな楽観的なものではありませんでした。
今日、全力で生きていく権利を訴えよう。感情的になってしまっても。言葉に詰まってしまっても。
そう覚悟を決めました。
1時間以上、腹痛に耐えながら診察に呼ばれるのを待っていました。
そして、私にとっては命を懸けた闘いに臨みました。
「就労不能の診断書を書いて欲しい。」
そうお願いすると、案の定
「それは書けない」
という答えが返ってきました。
「でも、○○日から働けない身体になったのは事実です」
「でも、一生働けない訳じゃない」
「そうではなくて、これから生活していくために診断書が必要なんです」
「いつまで就労不能というものは書けない」
「いいです。○○日から就労不能と書いてもらえればいいです。傷病名は、前回の傷病名と関連させて書いてください。」
「そんなことはできない。」
「何でですか?権利です」
「権利じゃない」
「いや、権利です」
「わたしは、ガンに関係したことしか書けない」
「それを書いてもらえばいいんです」
これで、ようやく書いてもらうことができました。
主治医の言っていた、わたしの望むように傷病名は書けないこと、「権利じゃない」と言っていたことの意味はわかります。
私も感情的になって、説明足らずで、ただ「権利」だと主張してしまいました。
でも、心身ともにボロボロの状態でよく闘ったと、自分を褒めたわけでも、診断書を書いてもらえてよかったと安堵したわけでもなく、ただ放心状態の頭の中で浮かんだ、自分へのメッセージでした。
私たちは、たとえ病気が治っても、生活ができなければ生きていけません。
だから社会保障制度があって、それを利用する権利があります。生きていくための。
医師法も、看護師法も、私でいえば介護保険法も、憲法のもとにあります。
たとえば生存権を思い出していただきたいです。
ただ、自分の職業の法律に則っていればいい訳ではないと思います。
わたしは、法律の話をしたい訳ではなく、「誰もが、人の尊厳を考えた行動をしなければならないのではないか」ということを言いたいのです。
そうでないと、私のようにどうやって生きていけばいいのかと、不安と隣り合わせの孤独な日々と闘いながら、生活しなければならなくなることもあるのです。
そんな生活は、心も身体もボロボロにします。
病気を治すことと、生活を支援、保障することは、どちらも命に直結することです。
だからこそ、わたしは社会保障制度(だけではありませんが)のスペシャリストになるために社会保険労務士国家試験に挑戦します。それは、「人の心の苦しみを救いたい」という私が人生をかけて取り組んでいく活動のために必要です。私なりの心の救い方として。
病院から出て、体力も気力も使い切った私は、家に帰ることができませんでした。
そこで、近くのホテルに泊まることにしました。
部屋にあった自分を写した鏡を見たら、まるで死人のようでした。
でも、
「ここからまた始まるんだな」
と静かに思いました。
カバンに忍ばせておいた春雨スープを、ゆっくりと噛み締めて飲み干し、眠りにつきました。
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