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ただただ、楽しんで生きればいい

老いることへの恐怖。
死ぬことへの不安。

人は、この世に生まれて、
いつか死んでいきます。

その生と死の「あいだ」で、
人は、様々なものと
つながりながら生きています。

社会や常識、
あるいは専門家が言う
「こうあるべき」に、
自分を合わせなくてもいい。

あなたは、
あなたの価値観を大切にしていい。

あなたは、
あなたの人生を生きていい。

自分の人生を楽しく生きることが、
また新たな「つながり」を
もたらしてくれる。

私は、そう信じています。

「あなたらしく生きていく力」を取り戻すために

あなたはすでに、「あなたらしく生きていく力」をもっています。こころのしんどさによって、それが見えなくなったり、気づくことが難しくなったりすることがあります。強くなること、前向きになることよりも、その前に、今あるしんどさを否定せず承認すること。そこから、他人軸ではなく、自分の選択で、自分の人生を生きていく力を取り戻していく。そんな「主体性の回復」について書いています。

「病院に行くほどではない」―こころのしんどさを置く場所があるということ

「病院に行くほどではない」「こんなことで相談していいのかな」。そう思いながら、こころのしんどさを抱えていませんか。苦しさに大きいも小さいもありません。今感じていることを否定せず、そのまま置いてもいい場所がある。この記事では、そんな選択肢があることをお伝えします。

「弱音を吐けない」―管理職が抱えるストレスを置ける場所

「管理職だから、弱音を吐けない」。責任感が強く、誰かを支える立場にいる人ほど、自分の苦しさを後回しにしてしまうことがあります。無理に前向きになったり、変わろうとしたりするのではなく、まずは今の気持ちを安心して置けることの大切さについてお伝えします。

人はなぜ人を求めるのか ―創痍と共に歩み続けるということ―

人はなぜ人を求めるのでしょうか。

私は長年、認知症ケアや精神保健福祉の現場、そして自らの病や喪失の経験を通して、「創痍(そうい)」という言葉を大切にしてきました。

創痍とは、単なる心の傷ではありません。

傷つき、物語を失い、それでもなお残り続ける「生きたい」「つながりたい」という願い。

私は、それを「ゾーエの混沌」として捉えています。

人はなぜ人を求めるのか。

創痍と共に歩み続けるということについて、私なりの考えを書きました。

誰もが揺るぎない「一人の人」である―ありのままのあなたが素晴らしいということ―

私は以前から、「福祉」「障がい」「多様性」という言葉の使われ方に違和感を持っています。

認知症だから。障がいがあるから。支援者だから。家族だから。

そうした属性の前に、誰もが揺るぎない「一人の人」です。

「絶対的個」「ケアシェアラー」という考え方を通して、私が大切にしている人間観と、目指している社会について書きました。

デジタル終活は、「デジタルの問題」だけではない―「一人の人」としての尊厳を守るために

デジタル終活は、
単なる「デジタルの問題」ではありません。

そこには、
ご本人の尊厳、
ご家族の葛藤、
そして“人と人との営み”があります。

認知症ケア・ACP・対話支援の視点から、
デジタル終活について考えました。

“まだ頑張れる”と思ってしまう人へ―それはあなたを守ってきたもの―

「まだ頑張れる」
そうやって、自分のしんどさを後回しにしていませんか。
頑張れる人ほど、「助けて」と言えず、静かに耐え続けてしまうことがあります。
そのしんどさは弱さではなく、誰かを大切にしてきた誠実さなのかもしれません。
「変わらなくてもいい」という視点から、“頑張り続けてしまう苦しさ”について書きました。

すべては一人のために、その一人のために、すべてがある―All for one, for all one.―

無理に、
相手を受け容れなくていい。

「一緒」じゃなくていい。

人は、
それぞれ違う「絶対的個」。

それでも、
人と人との営みは存在している。

All for one, for all one.