高齢者の車両事故。
メディアは盛んに取り上げる。
でも、「高齢者」と一括りにして、
事故を起こす可能性が高いという事に対して、疑問に思う。
その背景には、
「認知症ではないか」という差別的な意味も、見え隠れしているように感じる。
当然ながら、車を運転する人全員に、 事故を起こす可能性がある。
その指標が、「認知機能」だけになっていないだろうか。
一律に 「高齢者の車の運転が危ない」というのではなく、
その「人」に、車を運転する適正があるのかを、判断する必要があるのではないかと思う。
そのための教習所かもしれない。
でも、改めて、そういった尺度で判断することの方が、 安全な交通へとつながると思う。
しかし、 私が本当に伝えたいことは、
高齢者も若者も、障がいをもつ人も 、誰もがみんな「人」であるということ。
当然のことのようで、そして、当たり前のこと過ぎて、
頭の片隅を探しても出てこないような所に、しまわれていないだろうか。
そこに隔たりをつくりたくない。
あくまでも「人」であって、それ以上でも、それ以下でもない。
平等という枠も越えて、 共に生きていく社会を創っていきたい。
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