仏教の「空(くう)」を広めた、龍樹という天才的な人物がいます。この「空」によって、仏教はシンプルな教えになり、誰でもだいじょうぶな仏教、「だいじょう仏教」(大乗仏教)が生まれました。
「空」とは何か
すべては「幻」。この世界のすべて「フィクション」であるということです。
たとえば、ミッキーマウスは存在するかと聞かれたらどうでしょうか。
心の中には存在して「いる」けれど、実際には「いない」。
この「いる」とも「いない」ともあきらめられない。
これが「空」です。
龍樹の言葉
「すべてはガンダルヴァ城のようなものであり、かげろうや夢に似ている。」
ガンダルヴァ城とは、幻の城のことです。
先ほどのミッキーマウスの話に置き換えれば、シンデレラ城のようなものです。
この世界は「ディズニーランド」のようなものである、ということです。
彼氏彼女の関係も幻
彼氏は、「彼女」がいるから、「彼氏」であることができます。
しかし、「彼女」という存在がいなければ、「彼氏」ではなくなります。
「彼氏」「彼女」はお互いの心の中にある幻ということです。
この「幻」がきえれば「なにものでもない」、「空」ということになります。
龍樹の言葉
「この世のすべては、ただ心のみであって、あたかも幻のすがたのように存在している。」
では、すべて「幻」がきえたらどうなるでしょうか。
「虚無」でしょうか。
答えは、「すべてつながっている」です。
これを「縁起」(えんぎ)といいます。
「縁」、つまり「関係性ですべてつながっている」という意味です。
「空」を感じるとき
たとえば、卒業式。
「学校」というフィクションが消滅する。「生徒」は「生徒」でなくなる。「先生」は「先生」でなくなる。「自分」がなにものでもなくなるということです。「机」も「机」という役割から解放される。
人も、モノも、みんなが意味から解放されて、なにものでもなくなったときの感覚。それが、「空」を感じるときです。
すべての悩みは成立しない
私たちは、「自分」について悩みます。
自分は弱い人間…
自分は悪い人間…
自分の「かわらない本質」を想定して、誰にもわからないように、隠しながら生きていると思います。
しかし、龍樹は「空」の哲学で、この悩みを解決してくれます。
それは
自分の「かわらない本質」は、存在しない。ということです。
龍樹の言葉
「愚か者は、存在に不変の自体(我)を考え、
「ある」とか「ない」とかと
倒錯(とうさく)する誤りのために煩悩に支配されるから、
自らの心によって欺かれる(あざむかれる)。」
かわらない本質
ドラえもんのに出てくる、ジャイアンが「強い」のはのび太が「弱い」でいてくれるからです。
本質は「強い」でも、「弱い」でもない。「場合による」ということです。
自分が「弱い」という前提が、間違いではないでしょうか。
そこに「強い」というペアの相手はいないのではないでしょうか。
「自分は才能が無い」。だから「仕事ができない」。これも成り立ちません。
このような思考を、龍樹は「戯論(けろん)」とよびました。
くだらない考えという意味です。
すべての悩みは成立しないということです。
からっぽな自分
「空」の哲学。
「自分」とはそもそも「からっぽ」だ。そして、「からっぽ」だからこそ最高である。
たとえば、様々なことを失って、「からっぽ」な自分を隠すことに苦しむことがあるとします。
しかし、「からっぽ」だからこそ、自然が「自分」に入り込んできます。
最後に
前途したように、関係性ですべてつながっています。そして、「かわらない自分」に悩む必要もない。
「そのままでいい」のです。「かわらない自分」に悩むということは、比較対象があるからだと思います。つまり、フィクションだということです。
私が支援している認知症の方や、ご家族にも、この哲学を知っていただきたいと思います。
自分の「かわらない本質」から解放されて、心が少しでも軽くなることができたらと思います。
介護もフィクションであると捉えることで、精神的負担も軽減するのではないかと思います。
哲学を理解することは、中々難しいことです。理解できなくても、知っておくことで、自分が苦しい時の助けになるのではないかと思います。
参考文献
自分とか、ないから。教養としての東洋哲学 (サンクチュアリ出版) | しんめいP, 鎌田東二 |本 | 通販 | Amazon
認知というものを考えた時、空について考察するのは必然と言えるかも知れませんね。唯我論やマインドフルネスとかにも底通する部分もありそうで、案外と哲学的な思想というのが一つの鍵になるのかもなと気付かされました。
コメントありがとうございます。私も、「認知」ということを考えるとき、東洋哲学にヒントがあるのかもしれないと、勉強し始めたところです。また、哲学×認知症というテーマのブログを書こうと思っています。