ただ、ガンになっただけなのに──創痍と共に生きるという選択

投稿者: | 2026年2月23日

「ただ、ガンになっただけなのに」

これが、私の制限的パラダイム。
そして、深い創痍(そうい:こころのきず)。

ガンになって、手術をし、地獄のような入院生活。
退院してから、DVが始まる。

DVの詳細は語りません。相手を傷つけたくない。
だから、今までDVということを隠して発信してきました。
DVという行為だけを切り取れば、相手だけが悪いように見えてしまう。
だけど、DVという行為は、
相手の創痍から生まれる行動、そして多様な要因によって引き起こされている。
だから、相手が悪い訳じゃない。誰かが悪い訳じゃない。
相手は相手で辛かったのだと思う。
誰かを傷つけてまで、何かを成し遂げたくなかった。
そういう想いです。

無収入の状態が続き、ストレスによって症状は悪化。
まともに働くこともできず、経済的困窮に陥る。
でも、現実的に使える社会保障制度もない。

今は、毎日のように「低血糖じゃない低血糖症状」が出る。
困るのは、毎回、回復方法が違うということ。
そして、限界がきて眠りにつくまで回復しないことがほとんど。

だから、仕事は超省エネで、超効果的にやらなければならない。
こういう状況もあって、健康にコミットすることにした。

だけど、

「ただ、ガンになっただけなのに」

この言葉が溢れかえる時がある。

そうすると、
自律神経が乱れ、
生活リズムが乱れ、
約束も守れない。

離婚問題に触れる度、
行政、クレジットカード会社、ローン会社からの督促の電話やメールがくる度、
低血糖症状が出る度、

私の創痍はえぐられて、
DVを受けていた時の感情がフラッシュバックする。


今週、グループホーム(認知症の方が少人数で生活する場所)で、採用前提の面接がある。
でも、この体調で現場に立てない。

私には、バリデーションマスターになるという目標がある。
そのためには現場に居る必要がある。
そして、私は現場が好きだ。

明日は、出版企画書合宿を共にした同志の、出版記念&創業記念パーティーが東京である。
でも、低血糖症状が出て、東京から帰ってこれないかもしれない。
ホテルに泊まるお金もない。

グループホーム、パーティー。
どちらも、現実的に考えて諦める選択をした。

いや、諦めない。

グループホームは、現場はボランティアという形で関われないか。
法人単位で、施設研修やメンタルヘルスなどで関われないか交渉できる。

パーティーは、東京に居るのは2時間にコミット。
それ以外は何もしない。
兄が会場近くで働いている。
何かあったらヘルプできる体制を作る。
運営の方にも事情を話しておく。

私は、こうやって、否認と受容を繰り返している。


この事実を、俯瞰して整理したい。

「すべては、自分の選択の結果」

これは、選択理論的な考え方。

過去は、過去として選択の結果。
だけど、そこに感情を乗せなくていい。
今から意味づけを重ね塗りしなくていい。
ただ、事実としてこの過去がある。

そして、この過去に対して許可を出す。
自分も、相手も、環境も、社会も。
すべてに、許可を出す。

それが、セルフバリデーション。
簡単に言えば、自己承認。

そして今、
「未来への選択をする自由が、目の前にある」。

私はこの言葉を、何度も握り返している。

だけど正直に言えば、
それを受け容れることは、簡単ではない。

「すべて自分の選択」と言い切ることは、美しくみえる。
でも、その裏側には苦しみもある。

それでも私は、
主体性を取り戻したい。
尊厳を取り戻したい。

私は被害者ではない。
この「七難八苦」というギフトを与えられた人なんだと、
揺れながらではあるけれど、誇りに思う。


だから、私の選択は、

不安と恐れを小脇に抱えて、やる。

不安をなくしてからではない。
恐れを克服してからでもない。

抱えたまま、やる。

完璧な状態を待たない。
万全であることを条件にしない。

いまの体調で、
いまの経済状況で、
いまの創痍を抱えたまま、

やれる形で、やる。


「ただ、ガンになっただけなのに」

この言葉には、
怒りも、悔しさも、悲しみも、
全部入っている。

でも同時に、

それでも生きている、
という事実も入っている。

創痍は、
まだつながりたいという証。
自分自身を、確かに感じるための、
大切な時間を与えてくれるもの。

私は、まだ選べる。

不安と恐れを小脇に抱えて、
前に進むという選択を。