ハイネの一節に、
「君が『あなたが好き』と言ったら、ぼくはつらくなって泣き出すだろう」
という言葉があります。
私はしばらくの間、この意味を理解できませんでした。
なぜ「好き」と言われて、つらくなって泣き出すのか。
その感覚が、よく分からなかったのです。
しかし今は、少し違う理解をしています。
「ぼく」と「あなた」は、それぞれ実存しています。
それぞれが、「一人の人」として生きている存在です。
しかし関係性が生まれる前から、
「好き」という感情は、すでに存在しているのではないかと思うのです。
その感情は、誰かから与えられたものではありません。
どこかに属しているものでもありません。
それは明らかに「ぼく」の感情です。
もしそこに「ぼく」が実存しているなら、
「あなた」を好きになるという関係性は、
すでに生まれ始めている。
その先に、実存的な関係性があるのではないかと思うのです。
私はこれまで、「対話」というものを大切にしてきました。
対話とは、単に言葉を交わすことではありません。
相手の世界を見ようとすること。
そして、自分の世界を差し出すこと。
お互いの価値観という世界の共有です。
そこには、否定はなく、安心感がある。
そこには、「ぼく」と「あなた」が存在しています。
そして、対話が成立するとき、そこには関係性が生まれます。
しかし、その関係性は、対話の瞬間に生まれるのではなく、
「ぼく」と「あなた」が、「絶対的他」として存在している時から、
始まっているものなのかもしれません。
「誰かとつながりたい」という感情。
それは、人が生きている限り、どこかに存在しているものだと思います。
私はそれを、「創痍」という言葉で表してきました。
わたしは、創痍のことを、簡単に言うと「こころの傷」であると伝えてきました。
しかし、それは傷ついた「経験」のことではありません。
それでもなお、誰かとつながろうとする「こころ」のことです。
痛みや苦しさは、弱さではありません。
それは、まだ誰かとつながろうとしている証でもあると思うのです。
セルフバリデーションとは、
その感情を否定しないことです。
苦しい感情も、矛盾した感情も、
無理に整理しようとしなくていい。
そこにある感情を、
そのまま認めること。
その経験ではなく、感情だけを感じ切ること。
そのとき初めて、
「ぼく」という存在が実感されるのではないかと思います。
そして「ぼく」が実感されるとき、
はじめて「あなた」という存在も見えてくる。
対話とは、そのあいだに生まれるものなのだと思います。
人はしばしば、関係性の中で苦しみます。
しかし同時に、人は関係性の中でしか生きていくことができません。
だからこそ私は、
対話とは、生きることそのものなのではないか
と思っています。
「ぼく」と「あなた」が存在しているかぎり、
関係性は生まれていく。
そしてその始まりには、
言葉になる前の感情があるのかもしれません。
「好き」という感情もまた、
その一つなのだと思います。
ハイネの一節は、
「好き」という感情が、「あなた」から言葉として伝えられたとき、
「ぼく」という、誰にも変えることのできない、「一人の人」という存在が揺らぐことを、
表現しているのではないでしょうか。
それは、「絶対的個人」としての、
「ぼく」の喪失でもあるのかもしれません。
「ぼく」は「ぼく」という尊厳をもって、
ありのままで存在していたいという「願い」なのではないかと、私は思います。
その先に、
「ぼく」と「あなた」との関係性が生む、「尊厳」があると信じています。
※本記事の思想的背景として、木村敏『精神医学と哲学のあいだ』(講談社学術文庫)を参考にしています。
