「知覚」というと
視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚の五感を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。
これらの「知覚」は、自己表現を表していると、私は考えています。
「知覚」は受動的なものではない
たとえば何かを見る時、受け身で対象物(花や食べ物など)を知覚しているわけではありません。
まず、対象物をみたときの感情が生まれます。
花をみて「きれい」「かわいい」といった感情。
その後に、それが「花」という対象物であると認識します。
そして、対象物を見ている「自己」を認識します。
ということは、
花を見て感動するという、能動的な「自己」が先に在るのです。
つまり、
感情が先にあり、
そのあとに、知覚を通して対象物と自己を認識していく。
それが、私の考える「知覚」です。
「知覚」は人間らしさ
人間らしさとは、様々な表現で表すことができます。
その一つが、「人間は感情の生き物である」ということです。
「知覚」は、感情が先に在ります。
これは、人間らしさの象徴ではないかと私は考えます。
「知覚」も、人それぞれ違いがあります。
そして、間違いはありません。
そこには、その人らしさ、自分らしさがあります。
つまり、
「知覚」は自己表現であると言えます。
どのように感じてもいいのです。
ありのままに感じていいのです。
人と人との「対話」の時のように、
話したいことを自ら話す。
受け取り方は、自分の自由であり、相手の自由。
そして、
そこには否定のない「安心感」があります。
それは、「知覚」とは、「自己との対話」であるとも言えます。
「知覚」と「創痍(そうい)」の関係
「知覚」とは、世界とつながる経験を、自己表現として体験していくことです。
世界からの刺激が、自分のミクロ(内側で起きているもの)に働きかけて、マクロ(行動)として表れる。
このミクロとは、心の深層にあります。
そして、
深層にある創痍(こころの傷)が、ミクロを生んでいます。
それが感情です。
そこにあるストーリーがマクロを生んでいるのです。
だから、
「知覚」という五感を大切に生きることは、自己表現であり、
深層にある創痍を昇華させる、能動的な行為なのです。
最後に
創痍から生まれるからといって、悲しさや、怒り、寂しさなどの感情だけではありません。
創痍を優しく撫でるような「知覚」は、喜びや嬉しさなどの感情も生みます。
そして、
「愛」を生みます。
だから、
創痍とは、手放すものでも、無視するものでも、癒すものでもありません。
共に在るのです。
それを「許可」して、
創痍から生まれた感情を感じ切った時、
そこには、
「誰も悪くない」という、「愛」があることに気づくことができるのです。
こころ日和
この文章を読んで、
自分の感じ方に、少し立ち止まった方へ。
こころ日和は、
「正しさ」を探す場所ではありません。
今、どう感じているかを、
否定せずに、そのまま置いてもいい
「対話」の時間があります。
無理に変わらなくていい場所が、
ここにあります。
▶︎ こころ日和について
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