障がい・病気・がん ― 属性ではなく、人は「存在」としてどう在るのか

投稿者: | 2026年2月16日

人は、病気や障がい、役割や立場といった、
「属性」で理解しようとする癖があるように、私は感じています。

しかし、本当に大切なのは、そこではないのではないか――
そんな問いから、今では私の確信となっていることをお伝えしたいと思います。

■ 尊厳とは何か

尊厳とは、誰かが「与えるもの」ではありません。
また、守ろうと努力して、初めて成立するものでもありません。

尊厳は、

  • 当然として存在しなければならないもの
  • 社会として保障されなければならないもの

です。

そして何より重要なのは、
尊厳が守られているかどうかは、本人がどう感じたかが事実である
という点です。

周囲がどれだけ配慮していても、
本人が「一人の人として見られていない」と感じたなら、
それは尊厳が損なわれたという「事実」ということになります。


■ 人は「属性」ではなく「存在」である

人は、

  • 病気の人
  • 障がいのある人
  • がん患者
  • 高齢者
  • 支援を受ける側

といった枠で捉えがちです。

しかし本来、人は
どんな属性よりも前に「一人の人」として存在しています。

尊厳が損なわれるのは、

「病気の人」として扱われた時ではなく、
「一人の人として見られなかった時」

です。


■ 関係性の中で生まれる実存

人は、完全に独立した存在ではありません。
関係性の中で、「私」と「あなた」が在る。

つまり、

関係があるから存在を感じられる
という側面があります。

同時に、

他者が「絶対的に他である」という個別性が保たれている時、
関係が切れても、個人の存在は揺らぎません。

逆に言えば、

他者の個別性を認識する力が揺らぐと、
関係性そのものの構築が難しくなります。


■ ノエマ・ノエシス・メタノエシスという視点

人の存在や関係を考える上で、
次のような構造が見えてきます。

ノエマ

自分の意味世界
自分が「こうだ」と感じている世界

ときに、自己中心的、利己的にもなり得ます。


ノエシス

他者へ向かう働き
他者とつながろうとする働き

利他的な方向に働くことがあります。


メタノエシス

ノエマとノエシスを繋ぎ止め、共存させる働き

  • 自分の意味世界を守る
  • 他者の意味世界も否定しない
  • 関係を壊さずに維持する

■ 個人主体性と集団主体性

本来、

個人が主体であるからこそ、
集団主体性が成立します。

集団主体性とは、
個人の主体性に妥協を許すような、
集団としての統一性とはベクトルが違います。

個人の意味世界(ノエマ)と、
つながろうとする(ノエシス)

この両方を保つ場です。

つまり、
集団主体性とは、
メタノエシスが働いている状態とも言えます。


■ 対話とは何か

対話とは、

同意でも
説得でも
融合でもありません。

対話とは、

意味世界同士が壊れずに
同時に存在できる状態

です。

だから対話には、「安心感」が生まれるのです。


■ 生命とは何か

もし「生きる」「死ぬ」というフレームを外したとき、
生命とは何でしょうか。

生命は、

  • 関係の中に残り
  • 意味の中に残り
  • 影響として残り
  • 物語として残る

つまり、
生命は実存として在り続ける。

生と死は、
消滅ではなく、
状態の変化なのかもしれません。


■ 最後に

人は、

属性としてではなく、
あくまでも「一人の人」という存在として見られることで、
「ここに居ていい」と感じられます。

尊厳とは、
その前提条件です。

そして、

個人が主体であるからこそ、
関係が生まれ、
集団が生まれ、
社会が成立する。

それが守られている社会。
尊厳が保障される社会こそが、

本当に、
人が「一人の人」として存在し、

そして、
「人と人」という関係性以外なく、
生きられる社会なのだと思います。

そのような社会を、
こころ日和とみなさんで創っていくことを、
こころから願っています。