最近、
「女性活躍」
「女性が輝ける社会」
という言葉を、よく耳にします。
もちろん、
それを否定したいわけではありません。
これまで、
声を上げたくても、
上げられなかった人たちが、
少しずつ、
社会の中で存在を認められていくことには、
大きな意味があると思っています。
ただ私は、
「インクルーシブ社会」という言葉と、
「特定の属性」を中心に据える考え方が、
本当に同じ方向を向いているのだろうかと、
考えることがあります。
なぜなら、
インクルーシブとは本来、
「特定の誰かを優先すること」
ではなく、
「属性によって、人を分けて見てしまう社会そのものを問い直すこと」
ではないかと考えているからです。
社会には、
さまざまな言葉があります。
「女性」
「障がい者」
「高齢者」
「認知症」
「マイノリティ」
もちろん、
制度や支援の上で、
すみ分けが必要になる場面はあります。
また、
障がいや病気の診断によって、
安心感を得ることができる人もいます。
しかし、
すみ分けが進んでいくことで、
人は「属性」として見られやすくなると、
私は思います。
そしていつの間にか、
「その人自身」
より先に、
「ラベル」
が見られるようになってしまうことがあります。
私は、
認知症ケアの現場でも、
その現実を何度も見てきました。
認知症をもつ人を、
「認知症の人」
というフレームで捉えた瞬間に、
その人の人生、
大切にしてきたこと、
好きなもの、
苦しみ、
誇り…
そんな、
「その人らしさ」が、
見えなくなってしまう。
そして、
「一人の人」として、
みることができなくなってしまう。
だから私は、
これまでずっと、
「認知症をもっていても、その人らしく」
という言葉を大切にしてきました。
でも今は、
その先のことを考えています。
本当に必要なのは、
「認知症の人を包摂する社会」
というより、
そもそも、
「人を属性中心で見てしまう構造」
そのものを問い直していくことなのではないか。
それは、
認知症だけではなく、
障がい福祉、
教育、
精神科医療、
働き方、
子育て、
さまざまな場面に共通しているように感じています。
また、私は
「ポジティブに生きよう」
「前向きに生きよう」
「いつも元気で笑顔でいよう」
という言葉にも、
少しだけ苦しさを感じることがあります。
なぜなら、
いわゆるネガティブな側面を誰もが抱えていて、
それも含めて「自分」だからです。
動けない日もある。
働けない時期もある。
何もしたくない日もある。
何もできない日もある。
ただ生きるだけで、
精一杯の日もある。
それでも、
人は存在していていいはずです。
どんな日にも、
どんな自分にも、
「その人らしさ」は確かに在ります。
ただ、
それが見えなくなる時がある。
でも、
それは消えたわけではありません。
だから私は、
インクルーシブとは、
「ありのままの自分という存在を否定されない社会」
ではないかと思っています。
人は、
強くならなければならない…
そんなことはありません。
強さ、弱さ、
どちらか一方で生きているわけではない。
そもそも、
弱いも強いも必要なのでしょうか。
強さと弱さの矛盾の中で、
前に進んだり、
後ろを振り返ったり、
時には立ち止まりながら生きています。
だからこそ、
ありのままの
「その人らしさ」
を見ようとすること。
ないものより、
在るものに目を向ける。
それが、
インクルーシブの本質なのではないかと、
私は考えています。
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