インクルーシブとは、「誰かを優先すること」なのか

投稿者: | 2026年5月14日

最近、
「女性活躍」
「女性が輝ける社会」
という言葉を、よく耳にします。

もちろん、
それを否定したいわけではありません。

これまで、
声を上げたくても、
上げられなかった人たちが、

少しずつ、
社会の中で存在を認められていくことには、
大きな意味があると思っています。

ただ私は、
「インクルーシブ社会」という言葉と、
「特定の属性」を中心に据える考え方が、
本当に同じ方向を向いているのだろうかと、
考えることがあります。

なぜなら、
インクルーシブとは本来、

「特定の誰かを優先すること」
ではなく、

「属性によって、人を分けて見てしまう社会そのものを問い直すこと」
ではないかと考えているからです。

社会には、
さまざまな言葉があります。

「女性」
「障がい者」
「高齢者」
「認知症」
「マイノリティ」

もちろん、
制度や支援の上で、
すみ分けが必要になる場面はあります。

また、
障がいや病気の診断によって、
安心感を得ることができる人もいます。

しかし、
すみ分けが進んでいくことで、
人は「属性」として見られやすくなると、
私は思います。

そしていつの間にか、

「その人自身」
より先に、

「ラベル」
が見られるようになってしまうことがあります。

私は、
認知症ケアの現場でも、
その現実を何度も見てきました。

認知症をもつ人を、
「認知症の人」
というフレームで捉えた瞬間に、

その人の人生、
大切にしてきたこと、
好きなもの、
苦しみ、
誇り…

そんな、
「その人らしさ」が、
見えなくなってしまう。

そして、
「一人の人」として、
みることができなくなってしまう。

だから私は、
これまでずっと、

「認知症をもっていても、その人らしく」
という言葉を大切にしてきました。

でも今は、
その先のことを考えています。

本当に必要なのは、

「認知症の人を包摂する社会」
というより、

そもそも、
「人を属性中心で見てしまう構造」
そのものを問い直していくことなのではないか。

それは、
認知症だけではなく、

障がい福祉、
教育、
精神科医療、
働き方、
子育て、
さまざまな場面に共通しているように感じています。

また、私は

「ポジティブに生きよう」
「前向きに生きよう」
「いつも元気で笑顔でいよう」

という言葉にも、
少しだけ苦しさを感じることがあります。

なぜなら、
いわゆるネガティブな側面を誰もが抱えていて、
それも含めて「自分」だからです。

動けない日もある。
働けない時期もある。
何もしたくない日もある。
何もできない日もある。

ただ生きるだけで、
精一杯の日もある。

それでも、
人は存在していていいはずです。

どんな日にも、
どんな自分にも、
「その人らしさ」は確かに在ります。

ただ、
それが見えなくなる時がある。

でも、
それは消えたわけではありません。

だから私は、
インクルーシブとは、

「ありのままの自分という存在を否定されない社会」
ではないかと思っています。

人は、
強くならなければならない…

そんなことはありません。

強さ、弱さ、
どちらか一方で生きているわけではない。

そもそも、
弱いも強いも必要なのでしょうか。

強さと弱さの矛盾の中で、
前に進んだり、
後ろを振り返ったり、
時には立ち止まりながら生きています。

だからこそ、

ありのままの
「その人らしさ」
を見ようとすること。

ないものより、
在るものに目を向ける。

それが、
インクルーシブの本質なのではないかと、
私は考えています。


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