統合失調症とはどんな状態なのか
統合失調症という言葉に対して、多くの人が
「現実がわからなくなる病気」
「幻覚や妄想が出る状態」
といったイメージを持っているように、私は感じています。
もちろん、それらは一部として間違いではありません。
しかし、それだけでこの状態を捉えると、
本質との距離ができてしまうのではないかと思うのです。
主体性との乖離とは何か
私は、統合失調症を
「主体性との乖離」
として捉えています。
ただし、ここでいう乖離(かいり)とは、
壊れる・失われるという意味ではありません。
そうではなく、
主体であるという感覚と、実際に起きている体験とのあいだに、
わずかな“ズレ”や“距離”が生まれている状態
です。
「自分なのに自分ではない」感覚
たとえば、
- 自分の考えなのに、どこか他人のもののように感じる
- 現実の出来事に対して、自分が関わっている実感が薄い
- 感情はあるのに、「自分が感じている」という手応えが弱い
このような体験は、
完全に切り離されているわけではありません。
むしろ、
自分の感覚や感情、
そして、自分自身そのものと、
つながっているのに、一致していない。
そんな心と身体、そして自己とのズレとして現れます。
このズレは特別なものなのか
ここで大切にしたいのは、
この「ズレ」は決して特別なものではない、ということです。
私たちも、
- 本当は嫌なのに、笑ってしまう
- 自分の気持ちがよくわからなくなる
- どこか自分を俯瞰して見ている感覚になる
こうした経験を、少なからず持っているのではないでしょうか。
つまり、
統合失調症は“全く別の世界の出来事”ではなく、
私たちの延長線上にある現象でもある
と捉えることができます。
統合失調症は関係性の中で起きる
この視点に立つと、
統合失調症は「個人の内側だけの問題」ではなくなります。
それは、
主体と他者、そして世界との“つながり方の問題”
として見えてきます。
だからこそ、
- どんな関わりがあるか
- どんな言葉をかけられたか
- どんな空気の中にいたか
こうした関係性の積み重ねが、
その人の「主体である感覚」に深く影響していきます。
対話が持つ意味
私は、対話を単なるコミュニケーションだとは考えていません。
対話とは、
主体と他者と世界とのズレによる、こころのしんどさを、
ともに確認し、承認していく営み
だと思っています。
正しさを押し付けることでも、
無理に現実に引き戻すことでもなく、
ただ、
- その人が感じていることを否定せず
- そのまま受け取り
- 同じ場にとどまること
その積み重ねの中で、
少しずつ「自分である感覚」が戻ってくることがあります。
まとめ
統合失調症とは、
主体が壊れる病ではなく、
主体であるという感覚と体験とのあいだにズレが生じる状態
です。
そしてそのズレは、
切り離されているのではなく、
つながりの中で起きています。
だからこそ、
誰かとの関わりの中で、
そのズレがやわらいでいく可能性もまた、確かにある。
私からのメッセージ
この捉え方が、
少しでも統合失調症に対する見方をやわらげ、
関わり方を変えるきっかけになれば嬉しく思います。
例え、統合失調症を持っていても、
あくまでも「一人の人」です。
そして、繰り返しにはなりますが、
統合失調症の症状は、人としての延長線上にあるものです。
「統合失調症だから」
というように、
その人をラベリングすることに、私は違和感を感じます。
認知症についても、同じことが言えます。
「認知症になったら人生終わり」
「認知症になったら何もわからなくなる」
このように、障がいや病気を持つ人に対して、
それを属性として分けてしまうところに、
差別や偏見が生まれると思います。
しかし、
誰もが「一人の人」であって、
それ以上でも、それ以下でもありません。
私は、
「人と人」という関係性以外ない社会を
創っていくために活動しています。
でも、
私一人ではそれは叶いません。
だから、
みなさんと一緒に創っていきたい。
私は、叶うまで続けていきます。
この記事で書いたように、
「自分である感覚」と「体験」のあいだに生まれるズレは、
特別なものではなく、
私たちの中にも連続的に存在しているものかもしれません。
そのズレを、
どう扱っていくのか。
もしもう少し整理してみたいと感じた方は、
こちらも参考になるかもしれません。
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