人は、病気や障がい、役割や立場といった、
「属性」で理解しようとする癖があるように、私は感じています。
しかし、本当に大切なのは、そこではないのではないか――
そんな問いから、今では私の確信となっていることをお伝えしたいと思います。
■ 尊厳とは何か
尊厳とは、誰かが「与えるもの」ではありません。
また、守ろうと努力して、初めて成立するものでもありません。
尊厳は、
- 当然として存在しなければならないもの
- 社会として保障されなければならないもの
です。
そして何より重要なのは、
尊厳が守られているかどうかは、本人がどう感じたかが事実である
という点です。
周囲がどれだけ配慮していても、
本人が「一人の人として見られていない」と感じたなら、
それは尊厳が損なわれたという「事実」ということになります。
■ 人は「属性」ではなく「存在」である
人は、
- 病気の人
- 障がいのある人
- がん患者
- 高齢者
- 支援を受ける側
といった枠で捉えがちです。
しかし本来、人は
どんな属性よりも前に「一人の人」として存在しています。
尊厳が損なわれるのは、
「病気の人」として扱われた時ではなく、
「一人の人として見られなかった時」
です。
■ 関係性の中で生まれる実存
人は、完全に独立した存在ではありません。
関係性の中で、「私」と「あなた」が在る。
つまり、
関係があるから存在を感じられる
という側面があります。
同時に、
他者が「絶対的に他である」という個別性が保たれている時、
関係が切れても、個人の存在は揺らぎません。
逆に言えば、
他者の個別性を認識する力が揺らぐと、
関係性そのものの構築が難しくなります。
■ ノエマ・ノエシス・メタノエシスという視点
人の存在や関係を考える上で、
次のような構造が見えてきます。
ノエマ
自分の意味世界
自分が「こうだ」と感じている世界
ときに、自己中心的、利己的にもなり得ます。
ノエシス
他者へ向かう働き
他者とつながろうとする働き
利他的な方向に働くことがあります。
メタノエシス
ノエマとノエシスを繋ぎ止め、共存させる働き
- 自分の意味世界を守る
- 他者の意味世界も否定しない
- 関係を壊さずに維持する
■ 個人主体性と集団主体性
本来、
個人が主体であるからこそ、
集団主体性が成立します。
集団主体性とは、
個人の主体性に妥協を許すような、
集団としての統一性とはベクトルが違います。
個人の意味世界(ノエマ)と、
つながろうとする(ノエシス)
この両方を保つ場です。
つまり、
集団主体性とは、
メタノエシスが働いている状態とも言えます。
■ 対話とは何か
対話とは、
同意でも
説得でも
融合でもありません。
対話とは、
意味世界同士が壊れずに
同時に存在できる状態
です。
だから対話には、「安心感」が生まれるのです。
■ 生命とは何か
もし「生きる」「死ぬ」というフレームを外したとき、
生命とは何でしょうか。
生命は、
- 関係の中に残り
- 意味の中に残り
- 影響として残り
- 物語として残る
つまり、
生命は実存として在り続ける。
生と死は、
消滅ではなく、
状態の変化なのかもしれません。
■ 最後に
人は、
属性としてではなく、
あくまでも「一人の人」という存在として見られることで、
「ここに居ていい」と感じられます。
尊厳とは、
その前提条件です。
そして、
個人が主体であるからこそ、
関係が生まれ、
集団が生まれ、
社会が成立する。
それが守られている社会。
尊厳が保障される社会こそが、
本当に、
人が「一人の人」として存在し、
そして、
「人と人」という関係性以外なく、
生きられる社会なのだと思います。
そのような社会を、
こころ日和とみなさんで創っていくことを、
こころから願っています。
