私は長年、
認知症ケアや精神保健福祉の現場で、
人のこころの苦しみと向き合ってきました。
自分自身もまた、
思春期真っただ中の、
17歳でメンタル疾患になり、
10年以上まともに働くことができませんでした。
それでも、
やっと普通に働けるようになり、
結婚して、
家も建てて、
「やっとここまでこれた」と思った矢先に、
胃がんになりました。
手術は成功しましたが、
退院して間もなく、
DVを受け離婚…と、
人生の大きな転機を経験してきました。
自分とひたすらに向き合う中で、
私は、「創痍(そうい)」
という言葉を大切にしてきました。
私が考える創痍は、
単なる心の傷ではありません。
もっと深く、
「わたし」という存在そのものに
関わるものだと考えています。
ビオス(物語)を失うということ
私たちは普段、
自分の人生を、
物語として理解しているように思います。
どこで生まれ、
どんな経験をし、
誰と出会い、
何を成し遂げ、
これからどう生きていくのか。
その物語を、
哲学では「ビオス」と呼びます。
私たちはビオスによって、
自分が生きる意味、存在意義を、
理解しようとしているのです。
しかし人生には、
その物語が崩れる瞬間があります。
病気。
喪失。
別れ。
裏切り。
挫折。
死別。
それまで信じていた世界が、
崩れ落ちるような出来事。
人はその時、
一度ビオスを失った
という感覚になります。
「自分はこういう人間だ」
というアイデンティティが揺らぐのです。
そして、
未来の見通しも失ったかのような
意識になることさえあります。
創痍とは何か
創痍という言葉を聞くと、多くの人は、
過去の傷を思い浮かべるのではないでしょうか。
しかし私は、
そのように考えていません。
離婚したこと。
病気になったこと。
大切な人を失ったこと。
それらは出来事です。
つまり、
ビオスの中の出来事。
創痍とは、
その出来事そのものではありません。
その出来事によって、
こころの中で顕在化する感情。
例えば、
言葉にならない苦しさ。
理由のない不安。
説明できない孤独。
意味づけのできない喪失感。
このような感情が、
出来事と創痍の間にあります。
私たちが、
出来事を引きずり続けて、
苦しまないために必要なのは、
この感情の承認と昇華です。
だから、
創痍が問題なのではありません。
課題でもない。
解決すべき対象でもない。
意味も理由も原因も、
感情の混沌の中にあるもの。
それが創痍です。
ゾーエの混沌
古代ギリシャには、
生を表す二つの言葉があったといいます。
それが、
ビオスとゾーエ。
ビオスが、
人生の物語であるなら、
ゾーエは、
純粋な生そのもの。
生きているという事実。
名づけられる前の生。
意味づけされる前の命。
私は創痍を、
このゾーエの領域にあるものとして考えています。
だから、
創痍は簡単には消えない。
どれだけ意味づけても、
どれだけ理解しようとしても、
どれだけ語っても、
なお残り続けます。
「今となっては必要な経験だった」
そう語ることはできます。
しかし、
それはビオスの語りです。
創痍そのものは、
その奥で確かに存在し続けています。
私はこれを、
「創痍とはゾーエの混沌である」
と表現しています。
つまり、
ゾーエの混沌とは、
感情の混沌とも言えるのです。
それでも残るもの
私は、
その混沌が、
絶望だけを生むとは考えていません。
なぜなら、
すべてを失ったように思える時でさえ、
残り続けるものがあるからです。
それは、
「生きたい」
という願いです。
希望があるからではない。
未来が見えているからでもない。
理由はわからない。
それでも生きたい。
誰かとつながりたい。
理解されたい。
理解したい。
人を求めたい。
その衝動だけは消えない。
私は、
その衝動こそがゾーエなのだと思うのです。
人はなぜ人を求めるのか
私は、
人は矛盾した存在であると考えています。
傷つきたくないのに、
人を求める。
理解されない苦しみを知っているのに、
理解されたいと願う。
一人になりたいのに、
孤独は苦しい。
私は以前から、
「人が苦手だからこそ、人を求める」
という考えを大切にしてきました。
それは、
単なる逆説ではありません。
創痍という混沌を抱えながらも、
誰かとつながろうとする、
生命の動きそのもの。
人を求めること。
対話を求めること。
誰かを理解したいと願うこと。
それらはすべて、
ゾーエの深いところから立ち上がってくる、
生命の営みなのではないでしょうか。
おわりに
人は、
苦しみをなくすことはできない。
創痍を完全に消すこともできない。
しかし、
だからこそ人は生きる。
創痍というゾーエの混沌を抱えながら、
それでも人を求め、
それでも対話を続け、
それでも生きようとする。
私は、
その姿そのものが、
人間らしさだと考えています。
その人間らしさの根源もまた、
感情です。
だから、創痍とは、
乗り越えるべき傷ではありません。
人という存在の根底にある、
「人間らしさ」そのものなのです。
混沌のままの生を否定しない。
整理できない自分。
矛盾している感情。
言葉にならない衝動。
これらを、
秩序に押し込まずに、
そばに在り続ける。
それは、
ゾーエの混沌への肯定。
感情の混沌への承認。
だから、
創痍と共に歩み続けるのです。
参考文献
『木村敏が考えたこと―精神医学と哲学のあいだ―』(創元社)
